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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

桶狭間の戦い攻略の真相 ─天下人への道が開けた信長の手腕─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅②

■実は二手に分かれていた!? 史料から見る新説

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へば、瞳どつとかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯(中略)。信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深田の足入、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡くつわの引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯

 信長の家臣・佐々政次(さっさまさつぐ)・千秋季忠(せんしゅうすえただ)が300ほどの軍勢で、今川軍に向かって攻撃を仕掛けたが、50騎を討ち取られるほどの大敗を喫してしまったという。ほぼ玉砕だったとみられるが、佐々・千秋隊の壊滅を目の当たりにしてもなお、信長は、家臣が制止するのを押さえ、善照寺砦から中嶋砦に移ると、さらに2000にも満たない軍勢で中嶋砦を打って出た。

 中嶋砦から義元の本陣までの経路については、『信長公記』には記載がない。当然、迂回したとも記されていないため、現在では迂回奇襲説は否定され、織田軍が中嶋砦から義元の本陣に正面攻撃したとの説も提起されている。ただし、義元も全くの無防備だったわけではなく、「戌亥(北西)に向て人数を備へ」ていたことは『信長公記』にも記されている。単純に正面から今川軍の本隊に突入したとは考えないほうがよさそうである。
 この点に関して、松平方からの視点で記された『松平記』には、「信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善照寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したところへ押来り」と記されている。丹下砦から善照寺砦までは、『信長公記』に記されている通りである。
 ただ、『信長公記』では、中嶋砦から出撃した佐々政次・千秋季忠らの玉砕をみてから中嶋砦に移ったとあるが、これは『松平記』にあるように、同時に起きていたことではなかろうか。つまり、『松平記』にあるように善照寺砦からは二手に分かれ、一手は佐々政次・千秋季忠ら率いる別動隊が今川軍の「御先衆」、つまり先鋒に攻めかかり、同時に、中嶋砦から出撃した信長率いる本隊が義元の「本陣」に攻めかかったとみるべきではないかと思われる。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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